18年ぶりの蕁麻疹の戸惑いを隠せない。。
※あくまで独断と偏見です。
「身体」という本人を誰よりも知っている一番近い理解者、一物体は常にサインを送ってくれる。
- 喉が渇いた時
- お腹の空いた時
- 排泄
- 眠たい時
- 体を動かしたい時
- ウイルスが身体に入った時
など、他にも様々なたくさんの理由が交錯するがこの辺で。また、前述でも申し上げた通り、身体から受けた指示は至ってシンプルだと思います。
例えば、、
「小室君!寝なさい。」
「小室君!暖をとりなさい!」
「小室君、座りなさい。」
「小室一喜君。もっと食事はゆっくり食べなさい。」
「小室一喜君。外の空気を吸いなさい。」
「一喜君。無意識に汗はかくものだからもっと水分補給をしなさい。」
私に常に予防線を張ってくれ、父と母のように絶え間ない愛を注いでくれて、恩師のように心をもって接してくれて、皆様、友達、知り合いのようにかけがえない絆を育んでくれて、それをいち早く包んで教えてくれるのが私ではなく、身体である。
何故かって人類の一番の自身の理解者は自分であり、更には身体だからだと思う。
(この言葉は語弊を生みやすいが、身体の細かな不調は自分自身しかわからないなどという観点でご割愛お願いします。)
彼らのアドバイス等は私達を豊かにしてくれます。
輪廻転生を信仰してるまで行けば奇妙ですが、生まれ変わりがあると思っているので、魂と身体は同じであり、違うと解釈してます。
色んな状況で互いにシンクロしたり分裂したりします。「あれっ。俺今何でこんなことしたんだろう。。。」
こんな状況一度ぐらいありませんか?
これもそれで、あれです。
え、ありませんか?
ない方はないというのがそれで、あれなんです。
その中には、身に迫る「危」という突然の身体からのシグナルに「多忙」や「快楽」という二文字等で答えて片付けて、何食わぬ顔で仕事や趣味に没頭する。これも有りがちだと思います。
まさに映画。千と千尋の神隠しの
始めのワンシーンでのお父さんとお母さん。
人間の欲望が実に素晴らしく描かれているワンシーンを思い出します。
異変に気付いた身体を顧みず、自然に逆らいながら、前を見る。
今は寝る時じゃない。
今は我慢するとき。。。。
楽しいからこうしよう。
しかし無理をして何になるだろうか。
欲と脳を直結させて憶える快感の先には何が残るんだろうと。
冷静に考えさせられました。
(もちろん無理をする事が絶対駄目!とは考えません。けど楽をして生きろ!とも思わないですが、、、今日の私には語彙力が足りなく伝わりません。)
運命の決断は常に一人一人に潜んでいます。
屈託な状況でも待ってはくれません。
やりたい事が同じで身長も体重も性格も、と類似してる箇所が多いならば限度も同じですが、それはないです。
人は個人個人のものさしがあって、長さもあって重さもあって材質もあってみんな違う。十人十色です。
一人一人違うであろうやりたい事に一人一人が焦点を当て、それに精一杯生きていく。素晴らしい事です。
その過程には「無駄なことなんて一つもない。」と考えてました。
私はその言葉の意味を履き違えていました。
自己満足していました。
無駄
むだ
【無駄・徒】
《名・ダナ》役に立たない(余計な)こと。効果・効用がないこと。 「出費の―を省く」
無駄なことは一つもないというのは
役に立たない事は生きてればないという事ですね。
しかし意識の反対に目を向ける必要はないと思うんです。
そう例えるなら毎日を前を見て歩く輝かしい人に
自殺の方法を考えさせるのは、愚問です。
たこ焼き屋さんを開店したいのに整備士に資格は取らないです。
必要か不必要かをしっかりと判断する力を養い、
「いい無駄」
「悪い無駄」
を精査したいです。
無駄なこととは義務ではないし
自分自身に辟易として言葉がないないです。
何が言いたいかは
蕁麻疹が痛痒いということです。
脳と身体からは
「小室君。痒ければ搔きむしりなさい。」
ここまでの事柄が逆転してしまいます。
例えるなら大貧民
トドメのイレブンバックです。
身体は正直です。
良い一夜を。