~いくらで気付いた1週間~
変わらないものはないよ。
毎日、時は刻一刻と時の間を秒針の音と刻んでいって、例えそこに秒針という概念がなくても、あってもなくても今生きて、見ている世界を意識して、その見た認識の世界は既に、思い出に変わってて、それを通り越してそこには一片の記憶として残ってそれを笑い話だったりしょうもない愚痴話とかに上書きされて、消えはしない、けど、戻りもしない落書きになっちゃうわけ。だから立ち止まりもしないし、抜けられない巨大迷路に入り込んだみたいになるの。知らない皆は焦って考えないのに考えて、知ってる皆は知ってるけど為す術もなく踊ってみる事しかできない。だから周りの人にケチつけてみる。「あいつがいってることって中身がないんだよ。リリカルに書いてるけど人のコピー。全部寄せ集め。寄せ集めだから傘をさしても、立ち止まることはしないよね。」って言う。大きなお世話だ。
だから読まないのはその人に興味がないんじゃなくてみんなが向いている方向が気になるだけなんだよね。そこに何もなくたってみんながやってればそれが何かになって、何もないことが、なにでもあることになる。
知らなくなって良いものに触れたり、出会えたりする、棚からぼた餅ですね。
今触れてるもの、いつからか興味があっていつから好きになったりしたか覚えてなかったりしますよね。好きな人から感銘を受けてはまったものだったり、親のエゴで固執した無関心な芸当だったり、退屈なおもちゃだったり。こんなあべこべな日本語遊びも誰かの影響だったり。はたまた、自分の何重にも厚い層を束ねた性格が一人一人出てきて、文字興しをしていたり。
体は一つで、心もひとつ。なんてきまってないですよね。昔の幼少期の頃、クラスメートには「こむって血液型が🆎だから絶対二重人感だよ!なに考えてるかわかんねー!」
なんてよく言われたもので、今はそんなこと言われたとしても微塵もないけど、
小さい頃の嫌な記憶っていつまでもあって、それが大人になった時の今の自分の性格を形成していく気がします。自分は自分ですよ。
じゃあ小さい頃にはまったことって何だろうって思ったんですよね。
なんでもいいんです。なんでも。
私自身、今思い出せる範疇だと
食べること
木登り
ザリガニ釣り
球蹴り
フリスビー
動物とのふれあい
サッカーも好きですが、得意ではなかったです。チームメイトの足手まといかなとかどこか負い目を感じるのは不治の病です。
子供の頃、将来の夢はなんですか?
なんて問いに「キリスト」と書いてることに嫌気を感じますが、そんな意味深な性格も継承されてます。
だからスライムみたいに変わってきた自分が少年から青年時代にはまったことは、
バイク
学生という青春時代をほとんどバイトに時間を使い、その対価で得た報酬をバイクにつぎ込む。
そんなバイクも何度かの事故で今は乗ってないですね。
人に左右されながら、迷いながら生きてきた人生で今、好きなことはなんですか?やっと気づけたことがありました。
読書
運動
食事
酒の席
好きなことには共通して、人との時間を作ることでした。
単純なことが生きてるという何よりの何よりの一番の時間でした。
楽しい思い出も辛い思いも全部ですね。
当たり前ってぼやけてくるんですよ。
当たり前と普通は反対ですし。
何が言いたいのかってなにも考えてないってことです。無理に広げた視界には霞んだ世界とどろどろな彩りでした。足元の花にすら気づけないぐらい余裕なくして、周りの目を気にするならその場所を離れるべきです。
世界は一つで世界はたくさんあります。
小さいときの環境が、今の自分をつくってて、小さいことを小さいことって思う自分に涙を浮かべて、大きな事はたぶんひとつもないんだって寝言をいってみる。目をつむって毎日はどこにあるんだろうってやきもきして。
萎んでいく風船よりプチンって弾け飛ぶシャボン玉みたいに儚くて綺麗になくなる方が堅実でしょ?
ずーっと偽った自分をみせてきたから、偽った自分といてくれるのか、偽った自分が偽った本当の自分といてくれるのかわからなくて、どっちがその人にあうのか考えて生きてそれが原因で、曇った日でも傘をさす。賢明だよね。空も、晴れてきた太陽も虹も見えないけど濡れないんだよ。でも傘になってくれる友達をみると嬉しくて雨もいいかなって思える。
雨が降ったり、雪が降ったり、晴れたり、曇ったり、暑かったり、寒かったり、風があったり。一定がいかに不安定かって気づいたときから自分でいていいんだっておもえました。
迷ったりもしたけど、それで動けなくなってた今までは偽りの正義で悪戯みたいだったんだなあ。過去の犯した過ちは猛省したって謝ったって今更消せないですし、傷ついた人達に出せる顔はひとつだってないけど、だからって忘れた日なんて一度だってないですから今を生きてます。気づくのが遅かったですが。
やっと自分を出せるようになってきてまた1からのスタートかなって思います。
新しい自分を無理に見つけるのが癖ついてたけど、今までの自分も自分で今も自分です。
スッキリした朝を迎えたのは、昨日お話しした92歳の長野のお婆様と昔、北海道のおばあちゃんがよく手作りで筋子をほぐして醤油漬けにしてくれたいくらを思い出した昨夜からの事でした。その出来事は永遠の一瞬でした。
いくら大好き。